鉄道のない街大川のシンボル昇開橋
鉄道の消えた街大川に今もかかる鉄道橋梁
大川市のシンボルと言えば筑後川昇開橋です。実はこの昇開橋は鉄道橋梁として建設されました。戦前の1935年の頃です。
今では大川に鉄道は残念ながら走っていませんが、実は昔は鉄道が走っていました。国鉄(現在のJR)と西鉄ともに実は鉄道が走っていたのです。
このうち国鉄の佐賀線(現在は廃線)の鉄道橋梁として作られたのが筑後川昇開橋です。
以前にも触れましたが、鉄道のない現在から考えると、一見家具づくりと鉄道は全く関係ないように見えますが、実は鉄道の発展と大川家具との歴史は密接に関係しているのです。
昇開橋とは?
そもそも昇開橋とはどのような橋なのでしょうか?
昇開橋はその名の通り橋の中央付近が上昇して開くという橋です。いくつか日本にも存在しています。筑後川に架かる昇開橋は現存している昇開橋の中でも日本最古のものと言われています。
昇開橋自体は可動橋の一種で、徳島の加賀須野橋などがあります。他の方式を取った可動橋では、天橋立や現在は停止しましたが勝鬨橋などを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?
当時は船舶による運搬が一般的で大川流域の筑後川河口は港が存在し船舶の通行が激しいところでした。また有明海の潮の干満の影響を受けやすい地形で、大型船の場合橋がかかっていると、通行に支障をきたします。
それを解消するために、船が通行するときには中央部付近を上昇させて、中央部の橋が船に当たらないようにした可動橋が作られたのです。
昇開橋は全長507.2m、可動部の長さは24.2m、昇降差は23mという大きな橋です。
橋の設計・施工には鉄道技師の釘宮馨氏(当時の鉄道省熊本建設事務所所長)が中心的な役割を果たしたと言われています。昇開橋の仕組み自体は坂本種芳氏が考えました。
竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と言われていたようです。
鉄道は消えても、その歴史を今も刻み続ける昇開橋
そんな昇開橋も本来の役割を終える時が来ます。当時は、木材や木材を製品化した家具の輸送に大活躍した鉄道ですが、トラック輸送が発展するに従い、大川での鉄道の役割は縮小し、終焉を迎えます。1987年国鉄が民営化される直前に国鉄佐賀線は廃線となり、建設から約50年でその役割を終えました。
昇開橋も閉鎖され、当時の建設省からも撤去勧告を受けましたが、地元では存続を願う声が大きく、5年後の1992年に日本国有鉄道清算事業団から大川市へ無償譲渡され、現在では大川市と、橋を隔てて隣接する佐賀県佐賀市諸富町のシンボルとして存在しています。
2003年には国の重要文化財にも指定され、2007年には機械遺産に認定されました。
建設から約90年近く経った今でも大川市のシンボルとして存在している昇開橋。現在では歩いて対岸の諸富町に渡ることもできます。
たもとには大川テラッツァという大川市の観光スポットやインテリア情報を集約した施設もできました。
大川でインテリア巡りをされる際にはぜひ昇開橋にもお立ち寄りください。